PAPAの独り言

PAPA(3児の父)が、いろいろ書きたいこと書きます。

『科学の方法(中谷宇吉郎)』を読んで

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

岩波新書の『科学の方法(中谷宇吉郎)』を読みました。全てを読んだのではなく、何となく気になる箇所をざっと通し読みした感じです。この本は、60年前に書かれた古い本ですが、非常に明晰な思考に基づいた科学に対する意見に、凄く共感を覚えました。

 

特に第二章の「科学の本質」に関する文章は、「科学」というものに対して漠然としたイメージしか持っていなかった僕にとって、物凄く役に立ちました。「科学は絶対的真理ではない」という言葉はよく語られますが、それは逆に言うと「科学は絶対的真理である」という間違った先入観や思い込みを、科学にうとい人間達が持っているということだと思います。本当に科学を学んでいる人たちは、おそらく「科学は絶対的真理である」などとは、考えてもいないかもしれません。そもそも、科学は「新たな発見」の連続の歴史なのですから、常に「現在進行形」であり、未完成のものです。「絶対的真理ではないが、少しでも真理に近づけるように努力し続ける」という壮大な継続の産物が科学なのだと思います。

話が脱線したので、著書に戻しますが、第二章では科学が絶対的な真理ではなく、「人間の都合に良いように活用されている」という話が出てきます。例えば、「ラジオの電波」というものを説明するときに、「空間のゆがみが波となって、広がっていく」と捉えると非常に分かりやすく、計算もしやすいので、そういう風に捉えています。ですが、「発電所から家庭に届く電気」について、「空間のゆがみが、波のように伝わっていく」という説明では分かり難く、計算も難しくなってしまうそうです。「電気は波の性質を持つ」という電波的な説明よりも、単純に「電気が電線の中を通って流れていく」と考えた方がはるかに分かりやすく、計算もしやすくなる、と中谷さんは言います。

つまり、「科学的な説明」というのは、ある現象を「人間にとって分かりやすく」説明できる方が良いのであって、別にその説明の仕方はどれをとっても良い、ということです。実際に起こっている現象をより分かりやすく正確に説明できていれば良いのであって、「どちらの説明が真実か?」という不毛な議論は必要ない、ということになります。

「電気」も「電波」も目には見えません。実際に「電気」が存在することを、人間は五感を使って知覚することは出来ません。静電気で「バチっ」となる現象はありますが、バチっとなった理由が「電気が流れたから」ということ自体を五感を頼りに知ることは出来ないのです。ですが、「電気が流れた」ということにしてしまった方が、現象を分かりやすく理解することができる、というだけのことです。

ニュートンが発見したといわれる「万有引力」も同じです。「万有引力は真理であるか?」というのは不毛な議論です。実際に「万有引力がある、と考えると多くのことが説明できる(つまり、役に立つ)」ということが大切なんです。どんな説であれ、多少の誤差や間違いがあったとしても、実際にそれが人間の幸福や技術の進歩に役立つのであれば、それで良いのです。

「物理学」や「科学」は、人間と別個に存在するのではなく、常に人間や人間社会との関わり合いの中で発展していきます。「真理」は「永遠に到達できない理想の目標」のようなものととらえて、「科学」はそこにたどり着こうとする「永遠の継続的な営み」として捉えたら良いような気がします。

僕が最も印象に残ったのは、第二章なのですが、第一章も非常にオススメなので、ぜひ読んでみてください。科学の限界と本質を知ることで、間違った「科学的知識」に簡単に騙されたり洗脳されにくくなると思います。昨今、教育の現場などで「自分で考える力を育てる」と盛んに言われています。 時代を越えて読み継がれている『科学の方法(中谷宇吉郎)』を読めば、大人自身が「自分の頭で考える」きっかけになると思います。

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

科学の方法 (岩波新書 青版 313)